第89回「また来週」(02.04.11)

必要のない序文

ガベージコレクションってのはもともとコンピュータ用語で、使わなくなっているメモリだったりディスク、つってもフロッピーの領域だったりを見つけてまた使えるようにしてやるアクションだ。今時のOSや言語やメディアだとこんなことをしなくてもいいんだけれど、昔は手動でやっていた、なんていうとまた隠居ジジイの戯言のような気がする。

まあ、今回書きたいのはコンピュータの話ではなくて、人間の話だったりする。姑獲鳥の夏(京極夏彦)なんかでも書かれていた話なんだけれど、睡眠ってのは記憶のガベージコレクションだ、っていう考え方がある。つまりまあ、外部から受けたとんでもない情報量のあれこれを、脳みそがなんとか租借できるように処理をするっていうこと。

この「記憶の処理」っちゅう話を何も脳みそに限定せず、体全部に適用しちゃっても良いんじゃないかっていう考え方がある。体が覚えているって言うのはそれなりに体験があるひとも多いんじゃないかと思う。これはまあ、いまの科学では筋肉の使い方を脳が覚えているって言うことになっているんだけど、本当に実際の筋肉細胞とは無関係なのかって言うとどうなのか。

実際には筋肉細胞の方にも「記憶」に相当するものがあって、代謝の前に必死で次世代の細胞群に「記憶」を継承しているんじゃないかと考えたい。でまあ、その継承の際に「超回復」なんて言う現象もついでに起こっている、と。睡眠って言うのはそのための準備と、継承そのものを行うための時間だ。そう考えると、「寝る子は育つ」っていうのはしつけのためだけじゃなくて、実効性のある言葉になる。

こういう考え方にロマンを見いだす人もいるだろうし、ホラーを見いだす人もいるだろう。実際、この辺の話をテーマに書いた小説はぱらぱらとある。

これだけでもいいような気もする本文

ベビーベッドを探しにアンティークショップに出かけた。祖父の代から住んでいた家に二人だけで暮らしている分、スペースだけは充分にある。古い分、最近の家具はどうしても違和感がある。

そんなわけで、郊外にあるアンティークショップに向かった。倉庫のような、というか、倉庫そのものの広いスペースを贅沢に使ってアンティークが並べられている。そして何より、アンティークといいつつ、安い。本当に価値があるものではなく、単に昔ながらの泥臭い家具、と言った方が近いようなアンティークだからなのは仕方がない。「古家具店」といっても良いのだが、何しろここの店名が「アンティークショップ」なのだからこれも仕方がない。

ベッドを物色するが、あまりぴんと来ない。手頃なサイズのものがないのだ。やはり子供用の家具がそろっているような店で、新品を買うしかないのかもしれない。

買い物は楽しいものだけれど、どうしたって疲れる。世の中の女は買い物になると無尽蔵の体力を見せると言うけれど、どうも同じ女として実感できない。ちょっと休もうと、椅子のコーナーに向かう。そこにあった安楽椅子に惹かれて、おもむろに腰を下ろす。

その瞬間、違う風景が見えた。

一五の夏の時の、家にあった安楽椅子から見た空。じいちゃんの葬式が落ち着いた後、その上で揺られていたときに見た空。そのときの、世界に自分一人しかいないなような気分。"じいちゃんの記憶"があふれだしてくる。竹馬を作ってくれたこと。なかなか乗れない私を見かねて底に缶詰の空き缶をつけてくれたこと。偽物になってしまったような気がして泣き出してしまった私。カレーを作ってくれたこと。じいちゃんはカレーというものがよく分からなかったらしく、カレー粉で炒めた鶏肉が入ったシチューだったこと。それはそれで結構おいしいもので、結局じいちゃんにとって最期までカレーはそういう料理だった。お墓参りに行ったこと。そのとき、不用意に「じいちゃんもこのお墓にはいるんだなあ」と口に出してしまったこと。「そうやなあ」と穏やかな返事をしてくれこたこと。

……五月、じいちゃんと最後に話したこと。

ふっと現実に戻り、気づいたときには涙を流していた。涙を流したのはいつ以来だったのだろう。旦那と結婚したときも、泣かなかった自分にはどうかと思ったけれど、あのときからずっと泣くことを忘れていたのかもしれない。あのときのことは、また別の機会に。

「どうしました」と店員さんが心配そうに話しかけてくる。でも、事情を説明すると消えてしまいそうな気がして、ただ涙を流したままうつむき、店を出る。気分はなんだかとてもすっきりしていた。

それにしても、なぜあの椅子だったのだろう。単に安楽椅子だったから、かもしれないし、それだけではないかもしれない。でも、もうあの椅子に座ることはないだろう。あの椅子にはもう近づかないつもりだからだ。もう一度座ってしまうと、消えてしまいそうな何かがあるような気がする。ちょうど一五年前のように。

両親の顔を知らない。祖父に育てられたわたし。一五のときに本当にひとりになって、二五になってふたりになった。そしてあきらめかけてきた三〇になって、四人になる。そう、あの一五の夏から過ごしてきた時間のほうが、じいちゃんと過ごしてきた時間よりも長いのだ。

アベルは鳴り響く福音とともに天に召されたと言う。じいちゃんはどうだったんだろう。ふと、そんなことを思った。私が母というものになるのは今でもなんだか不思議だけれど、そんなのも、ちょっと悪くない。よく似た二人と呼ばれるだろう、生まれてくる子供たちにも、福音を。

ベビーベッドはまた来週にした。

さらに必要のない結び

まあ、こんな風に今日のことを思い出しながら、眠れないまま夜を過ごしていた。まあ眠れないのはそんなに珍しいことじゃなくて、そういうときにどういうことをするのかというのがもう一つの話。

よくあるのが羊を数えるとか本を読むとかだけれど、たぶん日常的にそういう習慣をつけておかないとあまり効果はない。もちろんお酒のように、肉体的に効果が見込めるスイッチもあるが、多くのものは行為そのものが起動スイッチになるような動機付けがされないとあまり意味がない。テレビを見る、というのも有力なスイッチだろう。

私の場合は睡眠薬を飲んでしまう、という安直な解決を採用することもあるけれど、パズルを解くという手段をとることもある。パズルというのは、一見眠る前には適さないようだが、種類によっては羊を数えるのと同じような単純作業だ。私がやるパズルとはちょっと違うけれど、袋小路をひたすら塗りつぶすだけの迷路みたいなもの、といって良いのだろうか。公文式のドリルの方が近いかもしれない。頭を使わないと言うわけではないけれど、その使い方がものすごくルーチン化されていて、異常処理が発生しない。

無知を承知でイメージを書いてしまえば、脳波を均質化するアクションなのではないかと思う。

結局、ぼんやりとしたベビーベッドのイメージとともに、眠りに就いた。


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