第88回「とかなんとか」(02.03.28)

自己啓発とか向上心とか言うけれど、言っている本人だってそんなことをきっちり守っているわけではなくて、ほとんどの人はなんとなく日常をだらだら過ごしているわけだ。だから本当に努力の上の向上なんてものをしてしまった人は褒め称えられる。まあここまで説明してしまうのもどうかと思うが、意識的に何かを犠牲にした努力をする方が普通、なんていう考え方ももちろんある。そんな生き方はつらいような気もするけれど、そんな努力を空回りさせずに立派に回したりもしている奴もいるわけだ。

もちろんそんなことを言う一方、こつこつと努力を、っていうほど本人は気負っていなくてさらりと何かを続けて、何かを成し遂げてしまう、なんて言うひともいるわけだ。そんなにたいしたことじゃなくても、数年前に比べればちょっとは勉強ができるようになっていたり、文章がさらっとかけるようになったり、仕事をそんなにきつく感じないようになっていたりする。

それでまあ、人それぞれがだらだらとあるいは努力しつつ過ごしそれなりに向上していく中で、自分を基準に他人を評価する。すごいとかすごくないとか、努力型だとか天才型だとか。誰が最初にいったか知らないが、「努力することも才能だ」なんて言った奴もいる。「だらだら過ごすことも才能だ」っていうのはもっともらしい言い草だけれど、「努力することも才能だ」って言葉を前提にしないと弱い分、表現としては数歩劣る。

でもまあ、みんながみんな向上しなきゃいけないものかねえ、なんて思ってみたりもするわけだ。向上なんて言うのはある一面の見方でしかない。宗教かなにかにどっぷり浸かって、他の生活がぜんぶいい加減になっても、本人か宗教関係者からみたらそれも向上だ。

てなことは一般論としてはまるで正しいんだけど(そりゃあ相対的なことを並べ立てれば何だって正しい)、とろい人間による被害が自分にふりかかると「あーあ」と思うし、努力あるいは成果を求められて、でもその報酬があったとしても精神的なものだけだったりするとやっぱり「あーあ」と思う。

その成果が出せなかったりして、自分の方がその「とろい人間」になったりすると「要求のしすぎだ」と開きなおるかもしれないし、「あーあ……」ってなってそのまま飲んだくれてしまうかもしれない。

(これってまるっきり上遠野浩平のまねじゃないか?)
(まあいいじゃん、たまには飲んだくれても)


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