第51回「雑文の正体」(00.01.16)

 私がこのページで書く文章は、昔とは明らかに違う。エッセイ、あるいは論文調の文章から、はっきりと違うものを目指して書いている。それが不統一感を生んでいる、と私は思っているが、このページの第一目的が私の楽しみであることを考え、ま、いっか。と考えている。

 さて、では私が考えている「雑文」のエッセンスとはどんなものか。まず、文全体の基本としては、「主義主張を主目的としない」ということである。報道と医療 (99.03.01) が「主義主張を目的とした」文章の典型であろう。ただし、主義主張の内容自体が「ネタ」であればそれは立派な雑文である。この場合、主張が矮小であるほど、論証が高尚であるほどおもしろい。

 もう一つの姿勢が、「おもしろさと本当のこと」をはかりにかけたら、「おもしろさ」を無条件に優先する、ということである。これは基本でしょう。雑文書きはみなうそつきらしいし。

 そして、ネタの使い方があるのだが、以下のような手法、あるいはその組み合わせを意識している。

たとえば。

「天気予報」

 気象予報士という資格制度が始まってもう5年になる。当然といえば当然だが、「いままでそういう資格が存在しなかったが、能力は十分にあった人」が初期のうちにとってしまったため、現在の合格率は惨憺たるものだ。(蘊蓄スタイル。このなかに巧妙に嘘を仕込むと美しい)

 しかし、この気象予報士という資格、これ単体ではほとんど役に立たない。天気予報がお金になる職場というものがもともと少ないからだ。どうしても、資格以外に実績やほかの付加価値を要求されてしまう。

(ここで、現在の天気予報が天気図をみての人間の勘から、コンピュータによる解析にシフトしつつあることを語ると全体が蘊蓄型になる)

 天気予報の的中率を上げるのは非常に簡単である。アラブの予報をするのだ。それだけで日本の予報をする一流の予報士の的中率など軽く上回れる。(小ネタ、時々無理矢理な話題転換に使う。が、ここでは失敗している)

 まあ、プロの予報について語っても仕方がない。(これも無理矢理。) 「星がきれいな夜はあした天気になるってことさ」と某NHKチョコおばけ番組がいみじくも歌っていたように(小ネタ。ただし、「おばけのホーリー」なんてマイナーなネタをこのようにしこむのはあまり感心しない(←セルフつっこみ型))、民間の天気予報は数多く存在する。

(ここで、「ここにカナガワ君という人がいる。」…とはじめて落ちに収束していくのが実例ピックアップ型。カナガワ君の描写にすべてが託せられる。この方法はうまくいったことがない)

などといろいろな方法があるわけだが(ネタ列挙型、最後の方の選択肢でボケる可能性が高い)、最近はそういう予報を「実践的に」用いる機会はなかなかない。雨が降っていたら帰りがバスないしタクシーになるだけだ。傘は常時持っているし。

(ここで落ちに困って終わる、というパターンを追求するタイプもある。実際困った)

といった感じになるわけだ。さすがに持ちネタなしの天気予報はつらかった。では、メインのネタをどうやって決めるか、であるが、それがすんなり決まればもっと量産しています。はい。

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