第38回「報道と医療」 (99.03.01)

 えっと。国内での脳死体臓器移植、行われました。

 ドナーの方のご冥福をお祈りします。

 また、ドナー並びにそのご家族の方の提供を決断された真心と勇気に感謝します。

 そして、レシピエントのこれからの生活が幸多いものでありますように。

*ドナー(臓器を提供する人)、レシピエント(移植手術を受ける人)

 と、まあこれは肝臓移植手術を2回受けた兄を持つ身としては全くの本心なのですが、テレビを見ていて思ったのが、こういう当たり前のことをあえて言う人がほとんどいない、というのはなんだか心が冷える思いだった。とくに、患者サイドの人は、(たとえ計算ずくであっても)そういうことを言うべきではなかったか。

 いきなり、「脳死の判定は〜」なんて言い始めるのはやはり不謹慎というのか何というのか、もどかしいものを感じるのですよ。それはアナウンサー(キャスター?)の仕事でしょう。

 それから。緊急特番がたくさんありました。確かに、「今後の移植医療のあり方」とか何とかでてくるのは当然だし、考えるべきことではあるのですが、あまりにも話を急ぎすぎていると思います。移植については、「これから議論が続いていくこと」は重要なのですが、どうも報道を見ていると「移植」という格好のネタを食い荒らしているように写ってしまうのです。

 ちょうど地下鉄サリン事件や関東大震災が風化していったように。

 もうちょっと落ち着いてからじっくり検証してほしいんですけどね。まあ、風化させない責任の第一は行政あるいは一般市民にあると思っているんで、マスコミにそこまで要求するのは筋違いかな、とはおもいますが。

 どうもこの手の報道というのはいろいろ出てきてしまうものだが。

 脳死判定のときに思ったのが、一般市民の死へのカウントダウンをする、というとんでもなく不謹慎な行為をしているんじゃないかと言うこと。昭和天皇の時じゃあるまいし。ご家族の方はその時点でテレビを見ていないにしても、やっぱりあれはまずいんじゃないかと思う。やっぱり事後でいいでしょう。

 本音を言えば、病院前にカメラをもって行くだけでも嬉しくない。できれば、レシピエント/ドナーの近づかない移植センターだけにとどめてほしい。百歩譲って、医者の記者会見のみ。

 しかし。思うのは。「無茶な取材と過剰な報道」だけでなく、「それらの(自己)批判」までもが最初から予定のアクションのように思えてしまう。つまり、過剰に報道すれば、その批判をすることでもう一度ネタになる、という非常に嫌な計算を感じてしまうのだ。

 「過剰な報道」をするその時点で、それを指摘する報道の準備が裏でされていると。

 それだけは事実ではないと信じたいのだが。

 そして。マスコミと同じ罪を犯しているのかもしれないが。今の時点で今後の脳死移植について思うのは、とにかく移植例がふえてほしい。日常の医療行為とよべるレベルに。1日1例くらい。(この数字は日本での脳死者数を考えると無茶ではない)

 そして。そのときに。臓器の提供というおこないが、レシピエントだけではなく、ドナーの遺族にとっても救いになれば言うことはない。

 それから。他人が移植を行うことを否定する人へ。頼むからほっといてくれ。エホバの証人の信者が信者でない一般の人に対して「輸血をやめろキャンペーン」をやるのと同じなんだからそれは。実際にやっているわけではないです。たとえば、のはなしです。

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