第52回「存在だけで不快」(00.02.20)

「誰に迷惑をかけてるわけでもないんだし、いいでしょう」

「いや、存在だけで不快だ、許せない」

この論法はどちらに正義があるのだろうか。「存在だけで不快」という、「生理的嫌悪感」という理由だけで拒否している、否定する側が問題なのか。

 まあ、実際には上記のやりとりに対して、どちらにシンパシィを感じるか、というのはネタと人に時代によって変わってくる。時代による変化は特に激しい。

 時代によっては、「ロックを聞く」「バンドを組む」ということだって、「存在するだけで許せない」という対象であった。

 まあなんて言うのか。「見苦しい」という言葉の定義の問題であろうか。「見苦しい」という振る舞いというのは、時代と場所によって変遷するわけで。かといって、時代が許せば排除していいものか、というとそうでもない。すくなくとも、ある年齢の人間にとって、「オヤジ」というのは狩る対象になるわけで。

 一時期、たばこをバス停で吸う人間は、存在するだけで不快であった。まあ、嫌煙権、道路に捨てるな、といった大義名分はあるにせよ、論理としてはあまり大差ない。

 ちなみに私の場合は、「歩きながら本を読む」ことについてよく責められるわけだが、これも結局は「危ない」って言うよりは、「見ているだけでいらいらする」というのが本音らしい。実際、ぶつかったことはないからね。でも、歩きながら本を読むことについてはちょっとやましさがある。このやましさはどこからくるんだろう?

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