第13回 臓器移植再論−『犠牲(サクリファイス)への手紙』から(98.05.19)

私の移植に対する考えたかたは臓器移植法案に関する話にあるとおり。

 さて。タイトルにある柳田邦夫氏の本は、あんまり移植とは関係ない本です。ただ単にこの文章を書くきっかけになったにすぎません。はい。でも、移植についてはちょっとからんでみたくなりました。

 人によって幅広い死の範囲があってよい、というのはいい。が。なぜ「心臓死」ならよいのか、という問いには答えがない。
さて。どちらのスタイルにしても、「葬式」といった儀式によって心がいやされるのであって、「脳死」も「心臓死」も同じことなんじゃないかなあ。

 どちらにしても、拉致されるように終わったら納得いかないのは同じで。ただ、「いままでまだ別れの時間だったのが」
「そうではなくなった」というのが問題らしい。

でも。

 最近の医学は、どうなのだろう。
「体が冷たくなる」という死から「心臓死」というのは「死がはやくなったこと」にはならないのか。

現実問題として、「死」と「移植」が結びついてしまったのは事実。
「移植」が残された者の「救い」になりうのも事実。
「傷」になる可能性もあるのは否定しないが。

 なぜ、日本の医療では「不信」をベースに語らなければいけないのか。

 うーん。それが最大の問題だと思う。よく、こういうテーマだと「和田移植」をひきあいに出すことが多いが、果たしてそういう、「歴史的出来事」を念頭に置いているから医療不信がおこっているのか。実は、そういう特定の事象は関係ないんじゃないかな、と思う。

 でも、現実に医療というものを身近に体験すると、とても「不信」という言葉はさきにこないんだけど。

前の落書きへ 戻る 次のたわごとへ