第86回「かくあるべき祭典」(02.02.25)

審判というのはどうしたってもめる。といいつつ筆者、門外漢である上にオリンピックの放送をほとんど見ていないので、現実のあれやこれにいちゃもんをつけるつもりはきっぱりとない。せいぜい酒の肴にさせてもらう程度だ。他意はない。

日常、審判云々として話題になるのは野球やサッカーだろうか。

野球の方は特定球団をひいきするという黒い噂が絶えない。そりゃあ、カードによって給料が違うというのだから、そういう邪推をされても仕方ないだろうとは思う。

サッカーの方はどちらかというと、よく言えば審判の個性の強さ、悪くいえばいい加減なファウルの基準がやり玉に挙がることが多い。

まあ、サッカーの場合はサッカーフィールド全体でひとりしか主審がいないという構造的な問題もある。日本のサッカーの場合は、プロの審判がいない(みんな兼業)という経済的な問題もある。今後審判のプロ化をすすめていくようだが。

話がそれたが、今回のオリンピックで話題となった多くの競技は、野球やサッカーとは大きく違うの点がある。野球やサッカーは「今」のジャッジを確定させないことには、競技が進まない。ワンプレーごとに即時ジャッジをする必要があるのだ。

一方、採点系と呼ばれる競技は、審判の即時性を本質的には必要としていない。一見ショートトラックは例外のようだが、タイム測定を行う競技だって本来は即時測定でなくても良い。筆記テストみたいに、後でまとめて計測、言葉を換えれば採点したって良いのだ。その方が大変だという現実的な問題はあるが。

そう、そこで疑問なのだが、フィギュアスケートのような競技はどうしてその場で点数を発表するのか。はっきり言ってフィギュアの採点は「順位」だ。先に演技を行った選手には無理矢理でも満点をつけないように、採点は相対評価でしかない。

だったら採点は最後にまとめて行うのが筋と言うものでは無いか。ビデオもじっくり見ても良いだろう。そこにはカメラアングルというまやかしが入るわけだが、審判席からの目というまやかしよりは幾分マシではないか。

ショートトラックも同じことがいえる。「タイム」という絶対指標は即時計測するとして、「失格」の判定を即時に行わなくても困ることはないのだから、ビデオを使ってしっかり判定すればよい。

ではなぜ結果を随時発表するのか。その解答は簡単だ。そのほうが盛り上がるからだ。競技としての平等がある程度、そう、ある程度失われても、「随時発表」の方が盛り上がることは間違いない。

……と、本当に間違いないのだろうか。演技ごとに審査員のコメントを発表し、審査結果もとい、採点結果は最後にまとめて発表する方式だって、充分盛り上がるような気もする。

演技終了後、採点発表。静まる会場。審査委員長もとい、審判長が採点結果をもって司会者の元に。派手なはさみでおもむろに開封。

「さて。第70会レコード大賞もとい、オリンピック大会フィギュアスケート部門栄えある受賞者もとい、メダリストは……」

ここで言葉が切られ、ドラムロールとともに舞うスポットライト。

ドロドロドロドロドロドロ……(フェードアウト)

「優勝、米国○○、2位、米国○○、3位、米国○○、以上」と早口でまくし立てて逃げ去る司会者。

怒号と喧噪。興奮の絶頂。

結局オチはそこかい。


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