第31回 ネガティブなエンターテイメント(98.12.23)

 人の悪口を言うとか、ものをけなすとか、自分の不幸話をするとか、自分の怒りをはきだすとか、まあこういうとは一般的には愚痴というものになってしまって、大変不本意でつまらないものである。が、しかし、こういうものが「面白いもの」になり得るのも確かで、その形の1つとして「共感を生む場合」があるわけで。

 たとえば映画の話で、自分一人でみてつまらなかったのは単なる愚痴だが、二人でみて、そのあとお茶しにいって、

「あれさー、ほんとにつまんなかったよねー」
「そもそも映画になってないよね、あれじゃ予告編だよ」
「つぎはぎだらけの映像でさあ、意味がないの」

などとやるのは楽しいものになっているわけです。これはとっても健全な会話だと思います。

 では、一人でみて、つまんなかった場合。友達に、いかにあの映画がつまらないかということを電話でしゃべり初めて。友達が「あ、見た見た」といえば同じことです。では、見てなかった場合に。その「つまらなさ」の語りがとってもリアルだった場合に。

「映画館はさあ、すっごい行列していて、2回分待ったんだよ」
「すっごい期待してまってたわけ」
「それがさあ、…

 友達はこの話を仮想体験してしまって、それによって共感が生まれ、話を楽しんでしまう、と。そして友達にとっても無事、「その映画はつまらない」という印象ができてしまいます。

 これを商売でやるのが「評論」のひとつの形です。んでも。映画で食っている人が映画をおとしめちゃいけませんよね、本来。

注1…「映画」が何であるのかなんて、知ったこっちゃありません。
注2…「映画」をほかの単語に置き換えるなんてことは、私はしません。
注3…「自分で」体験してないのに「批判する」のは私にとって禁じ手です。
注4…でも、デス(以下略)のページって、面白いんだよなあ。

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