第81回「期待値と妄想の狭間で」(01.12.02)

目を覚ますと、一時間十分寝過ごしていた。ぼやけた意識のまま、18時10分を差す時計をみつめながら、一時間十分、という単語を聞くたびにイメージする四角い地図を浮かべていた。

他愛もないクイズだ。正方形のコースをサイクリングで走っていて、最初の3辺は一時間十分かかったけれど、何故か最後のいっぺんは70分でついてしまった、というものだ。特に疲れていた、とか急いだ、ということはないはずなんだけど、どうして? というもので、冷静に聞いてしまうと「はあ?」というものだ。

ところがこれを目にしたのが5歳だか6歳だかのころだったので、この「位取りによる認識の違い」という錯覚がすっかり体に染みついてしまって、その4〜5倍の人生を送ってきているというのに、まだ「一時間十分(一分十秒)→ 正方形のコース」という思考回路は生き続けている。

この手のパズルとしては、よっぽど次の作品の方ができがいい。元ネタはその筋ではマーチン・ガードナー氏によるもので、「サイエンティフィック・アメリカン」の「Mathematical Games」というコラムに掲載された。「正方形を十字に切ると合同な形に4等分出来る、では5等分してください」というものだ。

これはなかなか秀逸で、分かる人にはすぐわかり、分からない人にはなかなか分からない。しかも、一目瞭然の、完璧な解答がある。なんとなくわかるような、そんなせこい解答ではない。「マッチ棒6本で正三角形4つ」といった問題とは格がちがう。

こういうちょっとしたパズルがうけると、つい茶目っ気を出してしまう。「浦島太郎は何故おじいさんになったのでしょう? ただし、玉手箱を開けたから、歳をとったから、より綺麗な解答を臨みます」というものだ。美しい作為解があるのだが、「つい」というように、このネタは理解してもらえないことが多い。言語系は人を選ぶものだ。

こんなどうしょうもない思考――それも、過去何度もこの思考をたどっているのだ――を頭に浮かべながら、シャワーを浴びる。目を覚ますにはこれが一番良い。

シャワーを浴びて目が覚めたところで、どうでもいい現実を思い出す。パチンコ屋の新装開店に、寝過ごして出かけていっても何にもならないことを。今から出かけても体力と精神力と財力を消耗させるだけだ。それに気づいたところで、脱力しつつ風呂場を出る。

さて、どうしようか。金にならないパチンコには全く行く気がしない。ある一線を越えると、パチンコは腰と精神力に負担をかけるだけの作業になる。この域に達すると、玉をはじいている間は無感動になる。スーパーリーチに眉が動かなくなるのが入り口で、確立変動抽選に動揺しなくなるのが最後の壁だ。

打っている間に一番気を使うのが、確変中のストロークだ。1000回転はまっても別にどうと言うことはないが、拾いが悪い電チューにはいらいらしてしまうこともある。金銭的な感情は、仕事が終わり、現金を手にしたときからゆっくりと浮かび上がってくる。期待値という魔法の言葉を呪うのはこの瞬間だ。最近のパチンコは期待値50,000円がチャラになることくらいは珍しくない。

今回のイベントはクリスマス新装開店というやつであった。そのわりに今日という中途半端な日付に行われている。きっとボーナス前にぱーっと奮発して、ボーナス後にがっちり閉めよう、ということなのだろう。もちろん、そんな時期にはパチンコなど何があっても打たない。いや、嘘です。甘い台があれば打ちます。まあ、そんなことはほとんどないが。

もう縁がなくなった入場券を眺める。「クリスマス限定ペアシート、解放台多数」という文字を見て、ふと約束を思い出す。ほとんど入り浸っているおばちゃん(残念ながら、お姉さんではない)とペアシートで打つ約束をしていたことを。まあ、あのおばちゃんなら誰かをナンパしてでもペアシートを手に入れているだろう。あのおばちゃんはたばこは吸わないし、スーパーリーチでわめきたてることもしないから、隣で打っていて気持ちがいい。駄洒落癖をなくしてもらえれば言うことはないが、それは贅沢と言うものであろう。

いまごろきっとクリスマスというネタを肴に「はまりに苦しみマス」をはじめとして、好き放題言っているんだろうな。そういうことを言うとはまるぞ。

それにしてもペアシートというのは頭の悪いイベントだ。雀荘でバレンタインチョコを配るのとどちらが痛いか、いい勝負であろう。

体力の浪費をせずに済んだことに安堵しつつ、期待値で3万円という収入を失ったことへの喪失感をふくらませながら、再び眠りに就くのだった。


あいばまことさんの「クリスマス雑文祭」参加作品です。

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