第34回 思想の断片(99.02.01)

 ここに物体がある。これだけでは物理にならない。動いているか?それもわからない。見ている自分がいないとなにもわからない。鳥かごの中に鳥がいる。ふろしきをかぶせて、1、2、3。今、中に鳥がいるかどうかは決してわからない。それが現実。「いる」と考えるのが物理。「いない」と仮定するのも物理。「いないかもしれないが、それはわからない」というのも物理。

 物理って言うのは、すでに現実をはなれた学問になりつつあるんだよ。現実にない、理論だけでの不思議。でも、これがすっごくたのしいんだよ。あるモデルがあったとして、それが現実に適用できるかどうかはすでに問題ではなくなる。そのモデルが、いかにきれいに枠に収まっているか、それが話の中心になる。量子力学なんていうのは、現実にはなにも関係ないだろう?

 数学っていうのは、道具を増やすことと考える道を見つけることとその道を進むこと、この3つがある。たとえば、足し算の場合、子供の場合はまだ道具になっていない。だから、「数える」という道を見つけなくては行けないんだ。そして、「数える」。でも、子供によっては、「いち、にい、さん、ご。5だ!」と、ここでつまづくかもしれない。

 でも、君たちはもうそんなことはしないよね。足し算、というのはすでに道具になっている。5+6というのは、どういう意味かを考えるまでもなく知っていて、11と計算できる。これが道具になるということだ。かけ算だって、2かける3を2+2+2とやるか、にさんがろく、とやるのかのちがいがある。

 ここで、実は、この「にさんがろく」というのは、2かける3が2+2+2であることを知らなくても出来る、とういことに気づいてほしい。

そんなの常識だって?

 じゃあ、君は分数のわり算というものの意味を知っているのかい?「道具にする」ということと、「意味を知る」ということは別の話なんだよ。実は。

 今やっている積分だって、すでにxの不定積分が2分のxスクエアだってことは「意味がどう」というのではなくて、「機械的な変換」だよね。足し算だって、3個のケーキや5羽の鳥がいなくたって、3+5=8なんだ。

 さて、そんなわけで君たちは、まず「積分」の式を「道具」とすることを考えればいい。ただ、「道具」として身につけるために、「意味」とは言わない、「雰囲気」を知っていることは決してマイナスにはならない。

わかるかな?

 キーボードをたたきながら思う。なにがクリエイティブかそうでないかなんて、主観の問題だ、と。マクドナルドの店員だってクリエイティブかもしれないし、作家なんてものはとびっくりクリエイティブでないかもしれない。彼らは「おもしろさ」というコードを紡いでいるだけなのかもしれない。しかし、自分が一番クリエイティブでないというのは彼の全人格が思っていることであった。設計と構築。机上の空論のほうがクリエイティブなのか?

 構想と執筆。ものを作り出すのは執筆で。設計とコーディング。デバッグ。修正。内線の低いトーンの音が鳴る。2回鳴らしてからとる。「はい、システムです」

 人に見せることになんの意味がある?リセットしてやり直す?理屈付けが難しい。内線のケーブルをつなぎ変えても何もおこらない。情報は本体にある。ノートパソコンならネットワークコンピュータはごまかせる。何が正しい価値観なのか。エレベータを蹴る。何を考えているのか。そういう自分の罪が一番重いことを知っている自分。会議。プレゼンテーション。人間性。考えること。何もしないと決めた日に。


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