第4回 宗教と哲学の関係(97.11.16)

 このテーマについて、高校3年の時から、結局考え方変わってないなあ。

 まず。個人的には、どの宗教も信じてませんが、基本的に信仰を持つ人を否定する気もさらさらありません。

 まずは第一感。

 「宗教」にはまったひとは幸せそうなのに、何故「哲学」にはまった人は幸せじゃないんだろう。

 と。いや、そう思うんですよ。どちらも、人間について考える、という点では同じだと思います。宗教は、「人はどうあるべきか」という点に力点があり、哲学は「人はどうあるのか」という点に力点があります。

 宗教では、「あくまで一般論としては」、宗教的に似つかわしくない行動(たとえばその宗派の神を冒涜するとか(でも壺を売ってもいいの。))は、その宗教に対立する概念、たとえばサタンなどを持ち出して、「私たちとは関係ない、べつの世界の行動」として排除してしまいます。だから、世界は、その宗教だけが支配する理想郷になります。

 哲学では、人のすべて行動に対して、「どうしてそんなことをするんだろう」ととことん考えます。「なぜ人は差別をするのか」「なぜ匿名の嫌がらせ電話がかけられるのか」、そういう存在を、「現実にあるもの」として認め、とことん考えます。だから世界は、とらえどころがなく、難しい存在です。

 と、これが、その理由。

 どちらにはまるにしても、

 そーゆーことをしなくなればいいと思うし、

 そーゆーことをするようになったらまずいと思う。

 

とりあえず理解できない行動。

殺人犯がいる、というのは理解できる。

殺人犯の家族のところに押し掛けるレポーター、というのも理解できる。

それを見る視聴者、というのも理解できる。

それを見て、殺人犯の家族のところに匿名の電話をかけるのは理解できない。

それを見て、殺人犯に殺された人の遺族に嫌がらせ電話をするのはもっと理解できない。

それ以前に、容疑者、ていうか、犯人自身に嫌がらせをする見知らぬ他人、

という存在が理解できない。

 

もっと悲しくなる話。

病気の子どもがいるが、治療するお金がない、という現実は知っている。

そのため、募金を集めよう、とするのはとてもよく理解できる。

それに対して、協力的でない人たち、協力的でないお役所、というのも理解できる。

が、募金を集める人たちに嫌がらせの電話をかけるのは理解できない。

手術がうまくいかなかったときに、さらに嫌がらせの電話をするのは一番理解できない。

手術がうまくいかなかったときに、押し掛けてくる宗教勧誘もあんまり理解できない。

(解説。「理解できる」というのは、それが正しい、というんじゃなくて、現実にそういう人がいることはありえる、と思えると言うこと。一番最後の「手術が〜」に対する嫌がらせ、というのは、「お金いっぱい手に入れたくせに、持ち逃げしやがった、許さん」ということらしい)

 でね、こーゆー存在が減るんであれば、宗教にしろ哲学にしろ、はたまた「修身」ですら、すくなくともプラスの意味があると思います。マイナスがないとはいってないけど。

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